阪神淡路大震災1995を振り返る〜その後の顛末

震災のその後の経過について書き残しておこう。

1995年1月17日(火曜日)午前5時46分の震災直後停電と断水していたが比較的早期に復旧した。後でわかったことだが、同じ神戸市西区美賀多台でも1、4、7丁目の一部だけ断水は復旧したが他は断水していたそうである。断水はけっこう長く続き、明石の実家からも両親が風呂に入りに来たことを覚えている。

とにかく震災の後はひたすら家に篭ってテレビを見ていた。時々余震がきた。死者はついに5000人を超えたと報道されていた。未曾有の災害であった。

地震後初めて外出したのは1月21日の土曜日だった。明石の実家に車で向かった。西神地区は比較的被害が少なかったが、明石に近ずくにつれて辺りの土塀が崩れていたり、新幹線の架橋が落ちていたり異様な風景になっていった。

実家は築23年の一戸建てであったが、建物自体は一部損壊程度であった。ただ、父親が長年に渡って海外旅行のたびに買ってきてコレクションしていた洋酒が棚ごと倒れてほとんど割れてしまいブランデーやウィスキーの異様な匂いが立ち込めていた。

開業予定のビルを見に行ったが建物に一部亀裂が入った程度でほとんど無事で安堵した。これが開業した後だったら診療所もけっこうダメージを受けたであろうと思った。

週が明けて24日の火曜日に父親と車で春日野道の近くにあった父親の会社の様子を見に行った。どこをどう通って行ったのか全く覚えていない。ただ、父親の会社の中はめちゃくちゃであった。近くの春日野商店街まで行くと多くの民家が倒壊しており、テレビで見た二階が一階になっている実際の姿を見た。出てくる住人の方はみんな真っ黒な顔をしていた。

その頃、ひとつの噂が出回っていた。「1月23日の夜8時頃西宮を震源とするかなり大きな余震が起こると誰かが予言している」と。結局そんなことは起きなかったが、災害時には流言飛語が飛び交うものだということを身をもって体験した。

地震後2週間でようやくテレビも普通の番組に戻り少しづつ日常生活も元に戻っていった。

以上実際に私が体験したことを記録を頼りに書き綴ってみた。多くの方が大変な被災体験をされた中で私とその関係者はたまたま大きな被害もなかった。しかし、たった一度の天災で人生が大きく変わってしまうことがあることを肝に銘じて、今後も自分の体験を少しでも語り継いでいきたいと思う。

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